学術都市アルビダに所属する一研究者であり、魔術師でもあるペトルス=ガナーヴァジがこの世で一番愛してやまないものは、非常に多い。一番をひとつに限る必要はないとは、彼の、これまた数ある持論のひとつだった。彼の武骨な両手には、常に人より多くのものがあふれている。それは例えば溜めに溜めこんだ研究資料の山であったり、机の上の飲みかけのマグカップが増え続ける謎であったり、幸せなひとときを約束するチョコレイトやキャンディの類であったりした。
そして今、彼はうだつのあがらない30男には似合いの安っぽい寝台――彼にはちょっときゅうくつな――で、そのしつらえには似つかわしくない少しばかり上質なクッションを抱きしめて、フラットヤー女史の凍てつく視線にも勝るとも劣らない冬の雪をも溶かす、最上級の春の日差しを全身で受け止めているところだった。
つまるところ、今日は彼が一番愛してやまないもののひとつ。
休日だ!
窓の外のにぎわいをわずらわしく思いながら寝返りを打つ。その際、何かが安いアパートメントの床に落ちる音がしたが、それが何かを確認する気も起こらなかった。帰って眠るだけのこの部屋に、壊れて困るようなものはないだろうと高をくくる。昨晩も遅くまで研究室に居残って、課題の山に頭を痛めてきた。首も腰も肩も、最近は心なしか胃も痛い。
(一年中が春なら、それか、夏だといい。アルビダの夏は涼しいから、きっと僕でも幸せで、それは、幸せで、すごす。僕はチョコレイトが溶けかかるぐらいのあたたかさが、それはもう、好きだから、今も、それはもう……。)
時計台の鐘が鳴る。ひとつふたつ、みっつ鳴ったところでクッションに頭を押し付けた。このまま行くと、ペトルスの傷んだブロンドには派手な寝ぐせがつくに違いなかったが、それもまた良いものだろうと彼は思い直して、まだしばらくはお目見えすることのないだろう空色の双眸を、柔らかな布地にうずめていく。
こんなにのんびりとした休日は、学生の時以来ではないだろうか。
(太陽が真上までのぼりきる頃には、僕の頭にはがんこな寝ぐせがついていて、僕は気づかないそぶりで、あのひとのところへお昼ご飯を買いに行く。すると彼女は笑って、僕のチキンサラダサンドをつつみながら、“また寝坊ですか、ガナーヴァジさん!”……いや、“お寝坊ですね――”。)
ああでもないこうでもないと夢にしずんでいくにつれ、鐘の音も分からなくなっていた。今この瞬間、彼は間違いなく世界でゆびおりの幸せ者だ。行きつけのパン屋のあのひとは、春の陽気そのものの笑顔で、そんな彼を世界で一番の幸せ者までおしあげてくれるだろう。そんなささやかな空想も、小さな楽しみだった。
しかし世の中とは無情なもので、時計台の鐘が鳴る度、アパートメントの階段を速いリズムで駆け上がる靴音が、彼を現実に引き戻しに近づいてきていた。ペトルスはそんなことには全く気付かず、自分がぐずぐずと駄目になっていく喜びをかみしめながら、今日は天気も良さそうだからそのまま外で食事にしようかなどと、残り半日の夢を見ている。
そして最後の鐘が鳴ると同時、激昂する女の声と、建付けの悪い戸がドンと強く叩きつけられる音がして、ペトルスの甘い甘い夢はもろくも崩れ去るのだった。
「――また寝坊ですか、ガナーヴァジさん!何時だと思ってるんです――王都の方がお見えですよ!」
(hata)

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